Archive for July 2010

『千年語録 次代に伝えたい珠玉の名言集』サライ編集部

ここにには、60年、70年、80年、90年、そして100年の長きにわたって人生を歩んできた人たち、何かに一生を捧げた人たちの滋味溢れる珠玉の言霊が集められています。

これまで積み重ねてきた年輪と経験、そのときの置かれた環境などによって、人それぞれ受け取る意味合いは異なってくるでしょうが、誰でもこれらの言葉の中に必ず心にまで届く言葉が見つかるはずです。

私が心に刻み込んでおきたい言葉をいつくか挙げておきます。

「ユーモアとは、たんに楽しいこと、面白おかしいことではない。苦悩や落胆を味わった末、『にもかかわらず笑う』。これが真のユーモア精神です」という上智大学のアルフォンス・デーケン氏の言葉に励まされるシャンソン歌手の石井好子さんは、「この世に生まれたかぎり、いつか肉体は滅ぶでしょう。でも、一所懸命生きた、苦しんだ、愛した、その気持ちは「気」として残るんじゃないかしら」と死の境地を述べられています。

他には、
「自分はどこから来て、どこに行くのかという心の煩いが一切ない。人間は空空漠漠から出てきて、空空漠漠に消えていく。ただそれだけのことだと思っています」梅棹忠夫さん(比較文明論の泰斗)、

「私は木枯らしにたたずむ、葉を落とした木々の姿が何とも言えんくらい好きです。ありのままに、力いっぱい生きた潔い美しさがある(中略)人間もこうありたい。混じり気なく、飾り気なく、人生を精いっぱい生きて、自分の役割を果たし、さり気なく去る。」自然を愛する椿守(つばきもり)の岡田種雄さん

これらの言葉は本書の元になった雑誌『サライ』の「サライ・インタビュー」から抜き出された言葉ですが、できれば全文を読んでみたいものです。

あと内容とは関係ありませんが、本書は文字が大きく老眼が始まった私には助かります。もっとも、目のいい人にとってはもっとぎっしりと詰め込んで欲しかったと思う人もいるかもしれませんね。

本書を読んで、一所懸命精いっぱい頑張りながら、それでいてごく自然体でさり気なく生きることの大切さを再認識しました。

歯が抜けました

dogtooth今朝、目を覚ましてベッドでまどろんでいたところ、2週間ほど前からぐらついていた上あご左犬歯が抜けてしまいました。

もともと上下併せて26本(上あご14本、下あご12本)しかない状況での1本の損失はショックです。

抜けた歯をよく見てみると、根の部分が一部欠けているようです。写真の右上部分がこの箇所にあたります。

インプラントにすべきか、それともこのまま放っておくか。インプラントは日米どちらで行っても40〜50万円(4,000〜5,000ドル)前後とのことです。どうするか思案のしどころです。

良い助言をしていただけると幸いです。

『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル ブライソン

私がこれまでの人生で出会った書物の中でも最高峰の一冊です。今ここに生きていることの意義をここまで強烈に再認識させてくれる書物にはそうそう出会うことはないでしょう。それほどの感銘を受けました。すばらしいの一言です。

本書は、索引・参考文献も含めれば700ページにも達しようかという大著です。そしてその内容も広範かつ深遠です。物理学、化学、生物学、医学、天文学、惑星科学、地質学、考古学など、およそ科学と呼べる広範な学術分野を網羅的に俯瞰するとともに、宇宙の歴史、地球の歴史、そして地球上での生命誕生から知性を持った人類が生まれるまでの生命の歴史の解説に対して、著者の筆はさえわたります。各分野の黎明期から発展期、そして現在に至るまでの出来事、そしてそれらを切り開いた先人の苦闘の歴史を、各人の人格や背景にまで踏み込んで解説しています。中には少しばかり冗長な箇所もありますが、そのような小さな欠点など忘れさせてくれるくらいの力を持った著書です。

著者が最後に述べているように、地球上のすべての生命は、それこそ無限とも思える途方もない幸運の積み重ねの結果、今ここに生きているのです。そもそも、なんらかの生命体としてこの宇宙に生まれてくることすら容易でない状況において、ここまでの知性を持つに至った人類はさらに幸運なのです。それに加えて、人類は生を享受し、さまざまな方法でその生をいっそう豊かにできるという比類のない能力をも得ることができたのです。この事実を人間はひとりひとり心に刻み込むべきでしょう。そうすれば、この世界は必ずやより良い世界になると、私は信じています。

参考文献も非常に充実しており、さらに詳しく学びたい人の道しるべにもなります。

翻訳も非常によくこなれており、訳者の力量がうかがえます。

『新・細胞を読む』山科 正平

われわれ人間のからだは60兆個の細胞からなると言われています。本書では、電子顕微鏡などの高倍率顕微鏡を駆使して撮影された写真によって、それら細胞の姿を余すところ無く紹介してくれています。

本書は、1985年に発刊された『細胞を読む』の改訂第2版という位置づけですが、この20年間の生物学と顕微鏡技術の大いなる発達に基づき、内容的には全く新しい書ともいえる大幅なアップデートを経て発行されました。

現在の最先端の電子顕微鏡では0.1ナノメートル(1メートルの100億分の1)程度の構造まで見ることができます。つまり、細胞はおろか、一つの一つの分子まで見ることが可能になるのです(分子を見ることができるといっても、実際に分子を見るにはかなり厳しい条件をクリアする必要があるのですが)。

99の項目において、人間を含むいろいろな生物の細胞をこのような高解像度・高倍率の写真で紹介し、それに併せてその細胞の体内での働きを説明しています。つまり、各細胞の体内での働きに思いを馳せながら細胞の姿を見ることができるという組み立てになっています。

本書では主に電子顕微鏡によって撮影された「生きていない」細胞の写真が中心となっています(ただし、精子と卵子が受精する瞬間の写真などはあります)が、現在では進化した光学顕微鏡、蛍光顕微鏡、レーザー顕微鏡、そして原子間力顕微鏡などによる撮影が可能になり、さらには生きて活動する細胞の姿を画像化できつつあります。

このように現在では細胞の形だけではなく、その細胞が活動している姿をも捉えることが可能になりつつあります。次期改訂版では、iPadなどの電子書籍に対応し、実際に細胞が活動している姿を動画で見ることができるのようになることを期待しています。

このような地味ですが真摯な研究成果を視覚的に紹介してくる書を著した筆者と出版社に感謝し、筆を置きたいと思います。

『バブルの興亡』徳川 家広

一言で言えば、あまりに表層的なバブル論です。

過去のバブルを検証し将来の世界経済に警笛を鳴らすと言う意図で書かれたということで期待して読み始めたのですが、残念ながらその期待は見事に打ち壊されてしまいました。

本書で検証されるバブルは、
(1)1930年代の大不況に至るジャズエイジ・バブル
(2)1980年代後半の日本の不動産バブル
(3)1990年代後半のITバブル
(4)2000年代のサブプライム・バブル
の4つのバブルです。それらの検証も特に新しい視点を与えてくれるわけでもなく、結局これまで何度となく繰り返し語られてきたことを超えるものはありませんでした。あえて唯一救いがあるとすれば、これら4つのバブルを今一度振り返ってみる良い機会になると言う点だけでしょうか。

結局、これらのバブルは、マネーゲームに憂き身を費やす一部の経済エリートなどの輩が生み出したわけであり、まじめにこつこつ働いてきた過半数の人たちはその犠牲になっただけです。

また、未来予想として「銀行は大量に破綻し、企業は連鎖倒産し、日本の不動産を中国人やロシア人が買い叩く。失業率は30%を超え、売春が激増し、凶悪犯罪や感染症の流行が日常茶飯事となる」というような、いたずらに危機感を煽るような表現を使うことによって人の目を引こうというあざとい手段にも辟易します。

これをフィクションとして読めばそれなりに面白いかもしれませんが、何せ著者は大まじめに危機感を煽ります。困ったものです。

経済学というものがもたらす罪悪の証左として本書を捉えれば、かろうじて本書にも最低限の存在価値はあるかもしれませんが、結局はそれだけです。

著者は徳川将軍直系19代目ということですが、所詮は恵まれた立場の人間であり、結局その立場からの虚学的著作にすぎません。

人間の経済活動というのは、個人的価値観、社会的価値観、個人心理、社会的集団心理、技術発達状況、政治体制、多国間関係、世界紛争状況、資源供給体制、工業製品供給体制、農産物供給体制、諸サービス浸透状況、気候・天変地異などの非常に数多くの要素に複雑に依存しているのですが、著者はほぼマネーフローや資産価値評価(とせいぜい世界の紛争状況)にのみに着目した単純かつ表層的な議論に終始しています。本来はこのうえもなく複雑な人間の経済活動を、このような極度に単純化した観点から論じても、決して未来(遠い未来はいうまでもなく、近未来ですら)の経済状況を予測することなどとうてい不可能なことです。

しかし、これは著者に限ったことではありません。ほとんどの経済学者および経済を論じる者に共通している致命的問題です。過去に数十名の「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」(日本のマスコミはこれを「ノーベル経済学賞」と称し、他のノーベル賞と同列に扱っていますが、これはとんでもないことです。ノーベル賞の生みの親であるノーベルは草葉の陰でさぞや憤っていることでしょう)受賞者を排出しているアメリカが、世界一の貧富の差を生み出し、いまだに経済状態が改善しない事実をみれば、経済学というものがいかにいいかげんなものかは一目瞭然です。

経済を論じる者は、今一度謙虚に自らを振り返るべきでしょう。

『続・日本人の英語』マーク ピーターセン

前著『日本人の英語』では、実際に英語の読み書き、特に英語を書く際に実際に役に立つ事柄が満載されていましたが、本書は実際の読み書きよりも、日米の文化的違いや日本と英語の感覚的違いの説明に重点が置かれています。

彼我の映画、小説、俳句、エッセイなどを題材に、その文化的背景にまで分け入りながら日本語と英語(著者はアメリカ人ですので、米語と言った方が適切かもしれません)の違いを、表現の背後に隠れた意図にまで言及しながら説明しています。

多くの日本人にとって、本書の内容はおそらく知らなくても日常的な英語の読み書きにおいて特に問題はないでしょうが、知っていると諸々の面で人生がはるかに豊かになることは確かだと思います。そう言う意味で、本書は、前著の『日本人の英語』よりも面白く読むことができました。

本書は、日本語と英語の違い、文化の違いを説いて秀逸ですが、人間は言語を超越して人間として感動を共有できるという著者の信念がうかがえます。映画にしろ、文学にしろ、時代の淘汰をくぐり抜けてきた名作には、洋の東西を問わず必ず人の心を打つ何かがあるのです。本書で題材として取り上げられている映画の『東京物語』『カサブランカ』しかり、川端康成の小説『山の音』しかりです。

ところで、本書で直してもらいたい箇所が一箇所だけあります。それは、119ページの「I get really mad and punch him in the stomach」を「私は本気で腹が立ち、胃に一発お見舞いする」と訳している箇所です。「胃」を「腹」にすべきでしょう。

最後に一言。著書が言うように、日本の受験英語に毒された頭で英語を理解しようとする限り、本当の英語の心は理解できないのです。日本の英語教育制度の問題にも一石を投じる良書です。

科学とは

「科学」とは、「知的生命体が、宇宙を網羅的に理解しようとする知的活動」です。それ故、「科学」は地球上の人類に限定されるものではなく、この全宇宙に存在するであろうあらゆる知的生命体が宇宙を理解しようとする知的活動のすべてに当てはまる全宇宙に普遍的なものです。

この「科学」という営みを行う「知的生命体」は、奇跡のような偶然に偶然が重なってこの宇宙に生まれました。その一つがたまたまこの地球上に生まれた人類です。

その森厳なる事実を前に、私はなんとも厳かな心持ちになります。

そして、「技術」とは、知的生命体が「宇宙」とやりとりする際のインターフェースであり、科学的知見を基に知的生命体によって構築されたものです。このインターフェース無くして知的生命体は「宇宙」とやりとりはできません。

さて、このように「科学」と「技術」の定義をはっきりさせれば知的生命体にとって「科学」と「技術」とは全く別次元の体系であることがわかります、(もちろん「科学」と「技術」とは糾える縄の如しの関係にあるのですが)。この理解に則れば、「科学」と「技術」の両者を表す意味での「科学技術」などと言うことはできません。「科学技術」という表現を使うならそれは「科学に基づいた技術」という意味でのみ使い得るのであって、「科学と技術」を意味するために使うことはできません。しかし、この「科学に基づいた技術」は私の定義からすると同語反復で冗長ですので、「技術」と表現するだけで十分です。

しかし、残念ながら日本では「科学」と「技術」を一絡げ(ひとからげ)にした「科学技術」という表現がまかり通っています。そして、本来、知的生命体の純粋な知的活動である「科学」が、「技術」と一絡げにされ悪役にされることを多くの場面で目の当たりにします。私はそれがどうしても許せません。それ故、私は「科学」と「技術」を峻別し、「科学」と「技術」に言及する際には「科学技術」ではなく「科学と技術」という表現を使うことを提言したい。