Archive for 14th July 2010

『続・日本人の英語』マーク ピーターセン

前著『日本人の英語』では、実際に英語の読み書き、特に英語を書く際に実際に役に立つ事柄が満載されていましたが、本書は実際の読み書きよりも、日米の文化的違いや日本と英語の感覚的違いの説明に重点が置かれています。

彼我の映画、小説、俳句、エッセイなどを題材に、その文化的背景にまで分け入りながら日本語と英語(著者はアメリカ人ですので、米語と言った方が適切かもしれません)の違いを、表現の背後に隠れた意図にまで言及しながら説明しています。

多くの日本人にとって、本書の内容はおそらく知らなくても日常的な英語の読み書きにおいて特に問題はないでしょうが、知っていると諸々の面で人生がはるかに豊かになることは確かだと思います。そう言う意味で、本書は、前著の『日本人の英語』よりも面白く読むことができました。

本書は、日本語と英語の違い、文化の違いを説いて秀逸ですが、人間は言語を超越して人間として感動を共有できるという著者の信念がうかがえます。映画にしろ、文学にしろ、時代の淘汰をくぐり抜けてきた名作には、洋の東西を問わず必ず人の心を打つ何かがあるのです。本書で題材として取り上げられている映画の『東京物語』『カサブランカ』しかり、川端康成の小説『山の音』しかりです。

ところで、本書で直してもらいたい箇所が一箇所だけあります。それは、119ページの「I get really mad and punch him in the stomach」を「私は本気で腹が立ち、胃に一発お見舞いする」と訳している箇所です。「胃」を「腹」にすべきでしょう。

最後に一言。著書が言うように、日本の受験英語に毒された頭で英語を理解しようとする限り、本当の英語の心は理解できないのです。日本の英語教育制度の問題にも一石を投じる良書です。

科学とは

「科学」とは、「知的生命体が、宇宙を網羅的に理解しようとする知的活動」です。それ故、「科学」は地球上の人類に限定されるものではなく、この全宇宙に存在するであろうあらゆる知的生命体が宇宙を理解しようとする知的活動のすべてに当てはまる全宇宙に普遍的なものです。

この「科学」という営みを行う「知的生命体」は、奇跡のような偶然に偶然が重なってこの宇宙に生まれました。その一つがたまたまこの地球上に生まれた人類です。

その森厳なる事実を前に、私はなんとも厳かな心持ちになります。

そして、「技術」とは、知的生命体が「宇宙」とやりとりする際のインターフェースであり、科学的知見を基に知的生命体によって構築されたものです。このインターフェース無くして知的生命体は「宇宙」とやりとりはできません。

さて、このように「科学」と「技術」の定義をはっきりさせれば知的生命体にとって「科学」と「技術」とは全く別次元の体系であることがわかります、(もちろん「科学」と「技術」とは糾える縄の如しの関係にあるのですが)。この理解に則れば、「科学」と「技術」の両者を表す意味での「科学技術」などと言うことはできません。「科学技術」という表現を使うならそれは「科学に基づいた技術」という意味でのみ使い得るのであって、「科学と技術」を意味するために使うことはできません。しかし、この「科学に基づいた技術」は私の定義からすると同語反復で冗長ですので、「技術」と表現するだけで十分です。

しかし、残念ながら日本では「科学」と「技術」を一絡げ(ひとからげ)にした「科学技術」という表現がまかり通っています。そして、本来、知的生命体の純粋な知的活動である「科学」が、「技術」と一絡げにされ悪役にされることを多くの場面で目の当たりにします。私はそれがどうしても許せません。それ故、私は「科学」と「技術」を峻別し、「科学」と「技術」に言及する際には「科学技術」ではなく「科学と技術」という表現を使うことを提言したい。