Archive for August 2010

『ミトコンドリアが進化を決めた』ニック・レーン

本書では、ミトコンドリアというミクロン程度の大きさしかない細胞内の小器官を主題に、生命の営み、進化、性、老化、死に関して非常に広範囲にわたる議論が展開されます。一般向けですが、読み通すには高校レベルの生物学の基礎知識と、その内容の膨大さからかなりの集中力を必要とします。

私が高校時代に生物学を学んだ当時(1970年代後半)の教科書では、ミトコンドリアとは「多細胞生物の細胞内にあり、酸素を使って糖などの栄養物を燃やしエネルギーを生み出す」小器官であると教えられただけでした。

その後、約30年間の多くの研究の結果、ミトコンドリアが実はエネルギーを生み出すと言う役割以外にも、有性生殖、母系遺伝、細胞の自殺、生体の老化、死、そして生命の進化にいたるまでの多くの生命活動領域において非常に重要な関係を持っていることが判明しつつあります。それらの新知見が「著者の信念」と言葉を通して微に入り細を穿って紹介されています。ミトコンドリアがこんなにも多くの生命活動に影響を及ぼしていたとは驚きです。

ここで本書に従ってミトコンドリアの働き、起源、性質を簡単にまとめてみます(もちろん網羅的ではありません)。

1. 一人の人間には全身で約1京個(1億の一万倍)のミトコンドリアが存在し、全体重の10%を占める
2. 酸素を使って糖などの栄養物を燃やしエネルギーを生み出す
3. ミトコンドリア自身が独自の遺伝子を持つ
4. ミトコンドリアは母親のみから受け継がれる
5. ミトコンドリアの祖先は細菌で、共生体として真核生物の細胞に棲みついた
6. ミトコンドリアの存在が生命の複雑さを生んだ
7. ミトコンドリアの存在が男女の性を生んだ
8. ミトコンドリアが細胞のプログラム死を司っている
9. ミトコンドリアが老化を左右する
10. 生命の進化においてミトコンドリアが重要な役割を果たした

以上、本書を読んで非常に多くのことを学びましたし、知的好奇心を大いにかき立てられました。

しかしながら、著者の意見のすべてに賛同できるわけではありません。

上で私は「著者の信念」と書きましたが、ミトコンドリアの起源、働き、役割に関してここで著者があたかも証明された事実のように説明していることの中には、まだまだ仮説の範疇を超えていない事柄も多くあります。

もちろん、多細胞生物にとってミトコンドリアが非常に重要であることは確かですが、だからといって著者が言うように「ミトコンドリアが世界を支配している」と断言するのは言い過ぎだと思います。この宇宙において、生命ほど複雑にして精妙な存在は今のところ他には見あたりません。その生命は、ただ単にミトコンドリアだけではなく、遺伝子、細胞、臓器、種々の分子、タンパク、さらには遺伝子には直接プログラムされていない糖鎖、酸素、水素、炭素、窒素、それ以外の微量元素、およびそれらの間の想像を絶する程の複雑にして完璧に調和のとれた相互作用の結果、この宇宙に生存しているのです。とうていミトコンドリアでけでは世界を支配できませんし、説明もできません。

さらに著者の主張の中で私がもっとも賛同できないのは、エピローグの456ページで著者が述べている次の箇所です。「本書で見てきた物語は、(中略)地球上に限らず宇宙のどこにでも当てはまる、生命そのものの物語なのである」には、明らかに論理の飛躍があります。そもそも地球外の生命の存在すらまだ確認されていないのにどうして「宇宙のどこにでも当てはまる」と言えるのでしょうか?われわれが知っている生物学はあくまでも「地球生物学」です。

苦言も申しましたが総体的には非常に優れた書ですので、生命に興味のある人すべてに読んでもらいたいミトコンドリアと生命の一大叙事詩です。