『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル ブライソン

私がこれまでの人生で出会った書物の中でも最高峰の一冊です。今ここに生きていることの意義をここまで強烈に再認識させてくれる書物にはそうそう出会うことはないでしょう。それほどの感銘を受けました。すばらしいの一言です。

本書は、索引・参考文献も含めれば700ページにも達しようかという大著です。そしてその内容も広範かつ深遠です。物理学、化学、生物学、医学、天文学、惑星科学、地質学、考古学など、およそ科学と呼べる広範な学術分野を網羅的に俯瞰するとともに、宇宙の歴史、地球の歴史、そして地球上での生命誕生から知性を持った人類が生まれるまでの生命の歴史の解説に対して、著者の筆はさえわたります。各分野の黎明期から発展期、そして現在に至るまでの出来事、そしてそれらを切り開いた先人の苦闘の歴史を、各人の人格や背景にまで踏み込んで解説しています。中には少しばかり冗長な箇所もありますが、そのような小さな欠点など忘れさせてくれるくらいの力を持った著書です。

著者が最後に述べているように、地球上のすべての生命は、それこそ無限とも思える途方もない幸運の積み重ねの結果、今ここに生きているのです。そもそも、なんらかの生命体としてこの宇宙に生まれてくることすら容易でない状況において、ここまでの知性を持つに至った人類はさらに幸運なのです。それに加えて、人類は生を享受し、さまざまな方法でその生をいっそう豊かにできるという比類のない能力をも得ることができたのです。この事実を人間はひとりひとり心に刻み込むべきでしょう。そうすれば、この世界は必ずやより良い世界になると、私は信じています。

参考文献も非常に充実しており、さらに詳しく学びたい人の道しるべにもなります。

翻訳も非常によくこなれており、訳者の力量がうかがえます。

『新・細胞を読む』山科 正平

われわれ人間のからだは60兆個の細胞からなると言われています。本書では、電子顕微鏡などの高倍率顕微鏡を駆使して撮影された写真によって、それら細胞の姿を余すところ無く紹介してくれています。

本書は、1985年に発刊された『細胞を読む』の改訂第2版という位置づけですが、この20年間の生物学と顕微鏡技術の大いなる発達に基づき、内容的には全く新しい書ともいえる大幅なアップデートを経て発行されました。

現在の最先端の電子顕微鏡では0.1ナノメートル(1メートルの100億分の1)程度の構造まで見ることができます。つまり、細胞はおろか、一つの一つの分子まで見ることが可能になるのです(分子を見ることができるといっても、実際に分子を見るにはかなり厳しい条件をクリアする必要があるのですが)。

99の項目において、人間を含むいろいろな生物の細胞をこのような高解像度・高倍率の写真で紹介し、それに併せてその細胞の体内での働きを説明しています。つまり、各細胞の体内での働きに思いを馳せながら細胞の姿を見ることができるという組み立てになっています。

本書では主に電子顕微鏡によって撮影された「生きていない」細胞の写真が中心となっています(ただし、精子と卵子が受精する瞬間の写真などはあります)が、現在では進化した光学顕微鏡、蛍光顕微鏡、レーザー顕微鏡、そして原子間力顕微鏡などによる撮影が可能になり、さらには生きて活動する細胞の姿を画像化できつつあります。

このように現在では細胞の形だけではなく、その細胞が活動している姿をも捉えることが可能になりつつあります。次期改訂版では、iPadなどの電子書籍に対応し、実際に細胞が活動している姿を動画で見ることができるのようになることを期待しています。

このような地味ですが真摯な研究成果を視覚的に紹介してくる書を著した筆者と出版社に感謝し、筆を置きたいと思います。

『バブルの興亡』徳川 家広

一言で言えば、あまりに表層的なバブル論です。

過去のバブルを検証し将来の世界経済に警笛を鳴らすと言う意図で書かれたということで期待して読み始めたのですが、残念ながらその期待は見事に打ち壊されてしまいました。

本書で検証されるバブルは、
(1)1930年代の大不況に至るジャズエイジ・バブル
(2)1980年代後半の日本の不動産バブル
(3)1990年代後半のITバブル
(4)2000年代のサブプライム・バブル
の4つのバブルです。それらの検証も特に新しい視点を与えてくれるわけでもなく、結局これまで何度となく繰り返し語られてきたことを超えるものはありませんでした。あえて唯一救いがあるとすれば、これら4つのバブルを今一度振り返ってみる良い機会になると言う点だけでしょうか。

結局、これらのバブルは、マネーゲームに憂き身を費やす一部の経済エリートなどの輩が生み出したわけであり、まじめにこつこつ働いてきた過半数の人たちはその犠牲になっただけです。

また、未来予想として「銀行は大量に破綻し、企業は連鎖倒産し、日本の不動産を中国人やロシア人が買い叩く。失業率は30%を超え、売春が激増し、凶悪犯罪や感染症の流行が日常茶飯事となる」というような、いたずらに危機感を煽るような表現を使うことによって人の目を引こうというあざとい手段にも辟易します。

これをフィクションとして読めばそれなりに面白いかもしれませんが、何せ著者は大まじめに危機感を煽ります。困ったものです。

経済学というものがもたらす罪悪の証左として本書を捉えれば、かろうじて本書にも最低限の存在価値はあるかもしれませんが、結局はそれだけです。

著者は徳川将軍直系19代目ということですが、所詮は恵まれた立場の人間であり、結局その立場からの虚学的著作にすぎません。

人間の経済活動というのは、個人的価値観、社会的価値観、個人心理、社会的集団心理、技術発達状況、政治体制、多国間関係、世界紛争状況、資源供給体制、工業製品供給体制、農産物供給体制、諸サービス浸透状況、気候・天変地異などの非常に数多くの要素に複雑に依存しているのですが、著者はほぼマネーフローや資産価値評価(とせいぜい世界の紛争状況)にのみに着目した単純かつ表層的な議論に終始しています。本来はこのうえもなく複雑な人間の経済活動を、このような極度に単純化した観点から論じても、決して未来(遠い未来はいうまでもなく、近未来ですら)の経済状況を予測することなどとうてい不可能なことです。

しかし、これは著者に限ったことではありません。ほとんどの経済学者および経済を論じる者に共通している致命的問題です。過去に数十名の「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」(日本のマスコミはこれを「ノーベル経済学賞」と称し、他のノーベル賞と同列に扱っていますが、これはとんでもないことです。ノーベル賞の生みの親であるノーベルは草葉の陰でさぞや憤っていることでしょう)受賞者を排出しているアメリカが、世界一の貧富の差を生み出し、いまだに経済状態が改善しない事実をみれば、経済学というものがいかにいいかげんなものかは一目瞭然です。

経済を論じる者は、今一度謙虚に自らを振り返るべきでしょう。

『続・日本人の英語』マーク ピーターセン

前著『日本人の英語』では、実際に英語の読み書き、特に英語を書く際に実際に役に立つ事柄が満載されていましたが、本書は実際の読み書きよりも、日米の文化的違いや日本と英語の感覚的違いの説明に重点が置かれています。

彼我の映画、小説、俳句、エッセイなどを題材に、その文化的背景にまで分け入りながら日本語と英語(著者はアメリカ人ですので、米語と言った方が適切かもしれません)の違いを、表現の背後に隠れた意図にまで言及しながら説明しています。

多くの日本人にとって、本書の内容はおそらく知らなくても日常的な英語の読み書きにおいて特に問題はないでしょうが、知っていると諸々の面で人生がはるかに豊かになることは確かだと思います。そう言う意味で、本書は、前著の『日本人の英語』よりも面白く読むことができました。

本書は、日本語と英語の違い、文化の違いを説いて秀逸ですが、人間は言語を超越して人間として感動を共有できるという著者の信念がうかがえます。映画にしろ、文学にしろ、時代の淘汰をくぐり抜けてきた名作には、洋の東西を問わず必ず人の心を打つ何かがあるのです。本書で題材として取り上げられている映画の『東京物語』『カサブランカ』しかり、川端康成の小説『山の音』しかりです。

ところで、本書で直してもらいたい箇所が一箇所だけあります。それは、119ページの「I get really mad and punch him in the stomach」を「私は本気で腹が立ち、胃に一発お見舞いする」と訳している箇所です。「胃」を「腹」にすべきでしょう。

最後に一言。著書が言うように、日本の受験英語に毒された頭で英語を理解しようとする限り、本当の英語の心は理解できないのです。日本の英語教育制度の問題にも一石を投じる良書です。

科学とは

「科学」とは、「知的生命体が、宇宙を網羅的に理解しようとする知的活動」です。それ故、「科学」は地球上の人類に限定されるものではなく、この全宇宙に存在するであろうあらゆる知的生命体が宇宙を理解しようとする知的活動のすべてに当てはまる全宇宙に普遍的なものです。

この「科学」という営みを行う「知的生命体」は、奇跡のような偶然に偶然が重なってこの宇宙に生まれました。その一つがたまたまこの地球上に生まれた人類です。

その森厳なる事実を前に、私はなんとも厳かな心持ちになります。

そして、「技術」とは、知的生命体が「宇宙」とやりとりする際のインターフェースであり、科学的知見を基に知的生命体によって構築されたものです。このインターフェース無くして知的生命体は「宇宙」とやりとりはできません。

さて、このように「科学」と「技術」の定義をはっきりさせれば知的生命体にとって「科学」と「技術」とは全く別次元の体系であることがわかります、(もちろん「科学」と「技術」とは糾える縄の如しの関係にあるのですが)。この理解に則れば、「科学」と「技術」の両者を表す意味での「科学技術」などと言うことはできません。「科学技術」という表現を使うならそれは「科学に基づいた技術」という意味でのみ使い得るのであって、「科学と技術」を意味するために使うことはできません。しかし、この「科学に基づいた技術」は私の定義からすると同語反復で冗長ですので、「技術」と表現するだけで十分です。

しかし、残念ながら日本では「科学」と「技術」を一絡げ(ひとからげ)にした「科学技術」という表現がまかり通っています。そして、本来、知的生命体の純粋な知的活動である「科学」が、「技術」と一絡げにされ悪役にされることを多くの場面で目の当たりにします。私はそれがどうしても許せません。それ故、私は「科学」と「技術」を峻別し、「科学」と「技術」に言及する際には「科学技術」ではなく「科学と技術」という表現を使うことを提言したい。

明快な英語を書く

amazon.comのレビューアのコメントになかなか示唆に富むコメントを見つけたのでここに紹介したいと思います。

それは「AMA Manual of Style: A Guide for Authors and Editors」に対するBill Frankeさんのコメントです。

「AMA Manual of Style」はAmerican Medical Associationが発行している、医学論文を書く際の手引きとなっているガイドブックなのですが、Bill Frankeさんはその手引きが医学論文の冗長でもったいぶった表現を助長していると批判しています。

Bill Frankeさんがやり玉に挙げているのが、その本の冒頭部分に登場する以下の表現です。

“Preparation of a scholarly manuscript requires thoughtful consideration of the topic and anticipation of the reader’s needs and questions”

この表現が「冗長」「もったいぶっている」と言うのです。そして以下のようにより簡明な表現にすることを勧めています。

“When writing your scholarly article, think deeply about the topic and anticipate your reader’s needs and questions”.

最初の文章では読む者を突き放した表現ですが、この文を読んでいる人に直接語りかけるスタイルになりました。さらに、”think deeply about the topic”も余分なので思い切って省いてしまい、最終的に

“When writing your scholarly article, anticipate your reader’s needs and questions”

としています。確かにすっきりとしましたね。

学者や研究者の中には「冗長」で「もったいぶった」表現と「格調高い」表現とを混同している人が、洋の東西を問わず多くいるのですが、彼らには「明快」で「読みやすい」表現を心がけてもらいたいものです。

ただし、学術論文では最初の表現もありとは思いますが。

糖分の取りすぎがコレステロール値に悪影響

アメリカの Emory School of Medicine の Dr. Miriam Vos のグループの臨床研究から、糖分をより多く取っている対象者のLDL値はそうでない対象者に比べて高く、逆にHDL値は低いとの研究結果が得られました。

ただし、HDL値の差は統計的にある程度の有意性があります(p < 0.001)が、LDL値の差は統計的に有意ではありません(女性に対して p = 0.047、男性に対しては差は無し)。また対象者のBMIがほぼ27から28ですから、太り気味の人を対象にしていることも念頭に入れておく必要があります。もちろん対象者はアメリカ人です。 この結果をそのまま日本人に当てはめても良いかどうかは不明ですが、糖尿病の危険性も付きまといますから、少なくとも糖分の取りすぎには注意した方が良いことは確かでしょう。 [参考文献] Jean A. Welsh; Andrea Sharma; Jerome L. Abramson; Viola Vaccarino; Cathleen Gillespie; Miriam B. Vos Caloric Sweetener Consumption and Dyslipidemia Among US Adults
JAMA, April 21, 2010; 303: 1490 – 1497.

「科学の未来」フリーマン・ダイソン

物理学者フリーマン・ダイソンが、科学と技術に関して彼の持つ透徹した深い洞察力に基づき、「物語」「科学」「技術」「進化」「倫理」の五つの主題のもと、過去の歴史から説き起こして来るべき人類の未来を描きます。

特に、第4章の「進化」の章において、10年後、100年後、1000年後、1万年後、10万年後、100万年後、そしてそれ以降の未来において人類がたどるであろう予想図に関して語る場面は、凡百のSFを読むよりも遙かにエキサイティングでした。

原著の初出は1997年ですから、これらの予想の中にはすでに実現されている技術(ヒトゲノム解読等)もありますが、決してその古さを感じさせない点も本書の魅力の一つでしょう。

ただし、多くの場面で翻訳者が科学と技術とを混同している点には少々疑問を感じます。科学と技術は渾然一体となって発展してきたことは事実ですが、だからといって著者は決して科学と技術とを混同していないと思います。そういう意味でも原著「Imagined Worlds“>Imagined Worlds」を直接読むのが良いかもしれません(原著の英文は平易です)。

また、科学自体は、宇宙の真理を極めようとする人類の文化的活動であると思っている私にとって、科学が悪を産み出すこともあれば善にもなりうるという著者の主張には、完全に賛同することはできません。

このように、諸手を挙げて賛同できるわけではありませんが、人類の第一級の知性が示す未来を共有できたことは非常に有意義でした。

「理科系の作文技術」木下 是雄

正確、的確であり、かつ読みやすい文章を書くためのエッセンスが詰まっています。

水が低きに流れるがごとく自然な論理の流れにしたがって文章を構築していくことの重要性が説かれているのですが、それは、ただ単に文章を書くという行為だけに留まりません。本質は、いかにして相手に自分の思うところを的確に伝えるかという点にあるのです。それゆえ、本書は単なる作文技術の本を超越しています。理科系と銘打っていますが、まさに万人向けです。

1981年の発行ですが、本書の価値は今でも古びていません。本物は永続する良い例です。まさに永遠の名著です。

「世界は分けてもわからない」福岡 伸一

生物学者である著者は主張します。「生命現象の本質は、物質的な基盤にあるのではなく、そこでやりとりされるエネルギーと情報がもらたす効果にこそある」「生命現象は可塑的であり、絶え間のない動的平衡にある」と。そして、「世界は分けないことにはわからない。しかし分けてもほんとうにわかったことにはならない」と。著者は、ここに現代の生物学・医学の成功と限界をみます。

本書はとある絵の逸話から話が始まります。それは、15世紀後半のイタリアの画家ヴィットーレ・カルパッチョの手になる二つの絵です。イタリアとアメリカの美術館で別々に所蔵されているその二つの絵は、もともとは一つの絵を二つに切り離した作品であり、片方の絵のみをどれだけ熟視したとしても、他方の絵の内容や構図を想像するは不可能なのです。この話から、部分をどれだけ詳細にしらべても全体はわからない、つまり、「世界は分けてもわからない」という本書のタイトルに結びつく主張がなされます。

この主題を要として、「視線を感じるということ」「コンビニのサンドイッチが長持ちする理由」「ES細胞とガン細胞」「膵臓の働き」「空耳、空目(そらめ)」などの生命現象の具体例において、著者の思うところが述べられます。

さて、本書に読み終えた後に、二点、覚えておきたい箇所がありました。

まず「消化」に関してです。消化のほんとうの意義は、単に食物を分解して吸収しやすい形にすることにではなく、「前の持ち主の情報を解体すること」にあります。食物タンパクは、もともと他の生物体の一部であったので、元の持ち主固有の情報がアミノ酸配列に記録されているために、取り込んださいに異物として拒絶されないようにするには、それを元の持ち主固有の情報をもたないアミノ酸にまで分解する必要があるのです。これが本当の「消化」の意義なのですね。

第二に「食品保存料」に関してです。食品保存料として一般に使われているソルビン酸は水溶性であり、ヒトに対するその毒性は同じ哺乳類であるラットなどと同等であると考えられます。これら二種類の動物における代謝や解毒の仕組みがほぼ同じであるからです。しかし、人間の消化管には約120兆から180兆個もの腸内細菌が共生していると推定されています。細菌に対する毒性を持つソルビン酸などの食品保存料が、たとえラットでは毒性が無い、人間の細胞には直性的には毒性が無いからと言って、腸内細菌をも含む人間総体として捉えた場合にも毒性が無いかどうかは未知なのです。そういう意味では、できる限り食品保存料の摂取は減らすのが賢明でしょう。

以上述べた箇所も含めて、本書の前半の三分の二は主題に沿った話題で占められていますが、後半の三分の一では、本書の主題からは少し離れた話題に話しがおよびます。それは、生体におけるエネルギー代謝の解明で一家を成した学者エフレイム・ラッカーと、「天才」学生マーク・スペクターの共同研究における逸話です。ここでは、研究における熾烈な競争や倫理問題が絡んできており、確かに一気呵成に読ませるのですが、いかんせん本書の主題とは直接は関係しませんので、別な著書に収めた方がよかったように思います。

さて、現在の人類は、いまだに生命を全体として理解するまでには至っていません。もちろんシステムズ生物学などの野心的な試みはなされていますが、本当に生命を理解するにはいくつもの大きな壁を乗り越える必要があります。それゆえ、世界は分けてもわからないとわかってはいても、分けるしかないのです。著者もその「矛盾」を重々承知しながら日々の研究を行っているのでしょう。

同じ著者による「生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)」もお勧めです。