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ヒト胚性幹細胞に基づく脊髄損傷治療法に対する世界で最初の臨床試験

ヒト胚性幹細胞に基づいた治療薬・治療法を開発しているGeron社(米国カリフォルニア州Menlo Park市)が、米国Food and Drug Administration(FDA)に提出していた急性期脊髄損傷の治療候補薬GRNOPC1の臨床試験開始申請(Investigational New Drug (IND) application)に対して、本日(2009年1月23日)ゴーサインが出されました。これはヒト胚性幹細胞に基づいた治療薬・治療法(human embryonic stem cell (hESC)-based therapy )に対する世界で最初の臨床試験となります。ちなみに、この臨床試験開始申請書は、前臨床試験として実施された24の動物試験結果を含み、総ページ数はなんと21,000ページにも達する膨大なものです。

今回のゴーサインにより、Geron社が保有するヒト胚性幹細胞(hESC: human embryonic stem cells)バンクから分化・作製されたオリゴデンドロサイト前駆細胞(oligodendrocyte progenitor cells)を含むGRNOPC1を、患者の脊髄損傷を受けた部位に直接注入することにより脊髄神経機能の回復を促す治療法に対する第1相臨床試験がスタートします。まずは全米で7つの医療センターが選ばれ、そこで対象となるボランティア患者に対して臨床試験が行われます。第1相臨床試験ですので、主エンドポイント(primary endpoint)は安全性の確認ですが、副次エンドポイント(secondary endpoint)として有効性の確認もプロトコルに含まれています。

ラットを使った実験では、脊髄損傷を被った部位にGRNOPC1を注入することにより、損傷部位周辺におけるミエリンの再生および神経の成長がみられ、運動機能の回復がみられています。(Journal of Neuroscience, Vol. 25, 2005)

さらに、副作用を調べた動物実験から、以下の事が確認されています。

  • 脊髄損傷を受けたラットとマウスに対するGRNOPC1の投与後12ヶ月間に奇形種(teratoma)形成が無い
  • 脊髄外への注入細胞の浸潤が少ない
  • 神経障害性の痛みを誘発しない
  • 全身毒性(systemic toxicity)が無い
  • 死亡率を上げない

また、GRNOPC1は試験管レベルの実験で自己血清、NK細胞、T細胞に認識されない、つまり拒絶反応が少ないことが解っており、免疫抑制剤の使用を最低限に抑えることが可能になっています。(Journal of Neuroimmunology, Vol. 192, 2007)

今回のFDAの決定を受けて、Geron社のCEOであるThomas Okarma博士は以下のような声明を発表しています。

“The FDA’s clearance of our GRNOPC1 IND is one of Geron’s most significant accomplishments to date,” said Thomas Okarma, Ph.D., M.D., Geron’s president and CEO. “This marks the beginning of what is potentially a new chapter in medical therapeutics – one that reaches beyond pills to a new level of healing: the restoration of organ and tissue function achieved by the injection of healthy replacement cells. The ultimate goal for the use of GRNOPC1 is to achieve restoration of spinal cord function by the injection of hESC-derived oligodendrocyte progenitor cells directly into the lesion site of the patient’s injured spinal cord.”

「一度損傷を受けた成人哺乳類の中枢神経系は再生しない(Cajal 1921)」と長年言われてきましたが、いよいよ神経再生治療が現実のものとなってきました。Geron社を支援しているChristopher & Dana Reeve Foundationの創設者でもある故Crhistopher Reeve氏(映画Supermanの主人公:落馬事故で脊髄損傷を受け完全四肢麻痺であった)の願いが叶う日もそう遠くはないかもしれません。ただし現在のところ、本治療法の適用を受けるのは脊髄損傷後7-14日間の患者に限られています。

日本でも慶応大学医学部の岡野栄之教授が率いる脊髄損傷グループ実験動物中央研究所と共同で、神経幹細胞を使った脊髄損傷治療法の開発を行っています。これまでは有効な治療法の無かった脊髄損傷に対して、世界中の医学研究グループが切磋琢磨し、効果が高く副作用の少ない治療法が確立され、一人でも多くの患者が救われる日が一日も早く来ることを祈念します。

参考文献

カリフォルニア州の幹細胞研究

カリフォルニア州は、幹細胞および再生医療に関するバイオ医学研究に対して今後10年間にわたり総計30億ドル(毎年3億ドル)の研究資金を供与するというカリフォルニア州条例71を2004年11月に採択しました。この条例の趣旨に基づいて設立されたCalifornia Institute for Regenerative Medicine (CIRM:カリフォルニア再生医療研究所)の本部が、サンフランシスコに設置されることが2005年5月6日に決定しました。

この30億ドル基金の直接の恩恵を受けるのは、まずはカリフォルニア州立大学やスタンフォード大学などの研究大学および基礎医療研究所などの幹細胞研究者達と考えられます。幹細胞に関する基礎研究が強力に推し進められると同時に、世界中から若い優秀な研究者がカリフォルニア州に集まることが期待されます。これらの研究から派生する新たな知見や技術に加えて、大学から経験を積んだ優秀な研究者が産業界に輩出されるにことの相乗作用により、長期的にはバイオ産業界は全体として大いなる恩恵をうけるでしょう。

スタンフォード大学では、この基金から効果的に研究資金を得るために大学が一丸となり、ガンおよび幹細胞バイオ医療研究所(Institute for Cancer/Stem Cell Biology and Medicine)の統括の元、2005年2月に学際的な再生医療プログラム(Program in Regenerative Medicine)が企画されました。このプログラムでは、各研究者の研究資金(Grant)申請に対する規制はされないが、各研究者からの申請を効果的に行うための助言や取りまとめの役目を果たすことが期待されています。認められた研究資金はまずは新たな幹細胞研究のための設備投資に割り当てられ、専用の研究練が建設される予定です。

参考文献:
Planning begins to pursue grants from Proposition 71 stem cell research funds

それに伴い、必然的に新たに研究者が働く機会が増え、研究補助技術者や大学院生の数も増えるでしょう。資金のあるところに人も集まるということです。

この様に、本法案を歓迎しているスタンフォード大学ですが、しかしながら彼らの頭を悩ませている点があります。それは、いかにして米国政府のヒト胚性幹細胞研究に対する厳しいガイドラインに抵触することなく、カリフォルニア州からの研究資金を使用して幹細胞研究を遂行するか、という現実的問題です。特にスタンフォード大学の様な大きな機関は、政府からの調査の対象になる可能性が高く、米国政府資金による研究と、カリフォルニア州のこの基金からの資金による研究を峻別する体制を確立する必要があります。このために、スタンフォード大学ではヒト胚性幹細胞研究委員会(Human Embryonic Stem Cell Research Panel)を設立し、ヒトES細胞に関わる全ての研究を監視する予定です(参考文献:同上)。

提案時から現在に至るまで、本法案に対してスタンフォード大学ほど力を入れてきている組織は他にはないでしょう。特に一ベンチャー企業では、これほどの体制を取ることは不可能であろうと思われます。しかしながら、長期的にはスタンフォード大学発の研究や研究者がベイエリアの企業に輩出され、IT 産業の世界的中心地であるシリコンバレーの形成の基となったスタンフォード大学が、今度は21世紀のバイオ産業の世界的中心地になる礎となり、ベイエリアの大いなる発展に寄与することは間違いないでしょう。

また、サンフランシスコが無料での提供を約束している San Francisco General Hospital内の約4,300m2の研究スペースに研究設備が整えられる事が期待され、それに伴い研究者だけでなく研究補助のための新たな雇用も促進されるでしょう。加えて、市内中心部にモスコーンセンターと言う4万人収容可能な巨大なコンベンションセンターを抱えるサンフランシスコが、より多くのバイオ医療に関する国際会議の開催地になることも想像に難くありません。

さて、この法案を歓迎する声が大きい一方、財政難の州の予算を使ってこの様な「未知の部分が多い」研究をやることに対する疑問の声があります。その疑問に対しては「だからこそ、州政府の様な公的組織が補助すべき」であると答えたいですね。そもそも営利企業は基本的に儲けることが前提となっているので、幹細胞研究の様な実用までに多額の資金と時間を必要とする研究に対しては、よほどの強力な資金的背景と成功への確信がなければ着手しないでしょう。いきおい短期的にリターンのある研究にのみ力を注ぐ傾向があります。また、儲けの出る可能性の少ない研究を避けるので、どうしても対象が偏りがちになります。例えば、患者数が多くて治療法が発見されれば大きな利益が見込めるような疾病に対してなら多額の研究費がつぎ込まれるが、そうでない稀な難病の治療法に対する研究はいきおい取り残されてしまいます。本来ならば、米国政府がこの様な基礎研究の補助をすべきなのですが、現ブッシュ政権がヒト胚性幹細胞研究に対して大きな制限を加えている現状に鑑み、カリフォルニア州のこの幹細胞研究推進法案は高く評価されるべきでしょう。また、例え30億ドルの州の予算を使ったとしても、カリフォルニア州が幹細胞研究の世界的中心になることによる恩恵は、決して小さい物ではないでしょう。スタンフォード大学の経済学者であるLaurence Baer氏らの試算によると、カリフォルニア州はこの投資により120%から236%のリターンを期待できるとの事です。しかしながら何よりも重要なことは、経済的リターンでは無く、人類に対する貢献だと思います。幹細胞研究を行わなかったならば救えなかったであろう命を救うことが可能になるのなら、その恩恵は計り知れないものがあります。自分の家族が、あるいは友人が、現代の医療では不治と見なされ座して死を待つしか無い病に冒されたときに、財政難云々などと言えるのでしょうか?もし、少しでも可能性があるのなら、その可能性を信じ、その実現に全力を傾けることに対して、異議を唱えることは誰にも出来ないでしょう。我々カリフォルニア州住民は、本法案が可決されたことを世界に誇ってもよいのではないでしょうか。それが、世界第5位の経済大国に匹敵する経済規模を持っているカリフォルニア州に科せられた責務であると思います。

ただ、本筋からは離れますが個人的に懸念される事が一点あります。それは、ドットコムバブルがはじけた後もベイエリアで続いている不動産バブルです。この30億ドルのカリフォルニア州法案の可決、その後のカリフォルニア再生医療研究所の本部がサンフランシスコに設立されたことから、ベイエリアへの企業や人の流入が促進され、これ以上の不動産の高騰を招かないかと言うことです。私は、この「ベイエリアの不動産バブル」の検証も近々行ってみたいと思っています。

最後に一言。今回カリフォルニア州が、非常に大きな潜在的可能性を秘める幹細胞研究に対して、30億ドル支援の法案を通したことをカリフォルニア州住民として誇りに思うと同時に、10年後(あるいはそれ以降に)には大きな花が咲き、病に悩む多くの患者に光明がもたらされる事を心から祈る次第です。