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理想の医師像(あるいは、理想の医療)

生命科学・医学研究、臨床試験などの情報量が増大の一歩を辿り、ますます細分化・専門化しつつある医学・医療界の趨勢に鑑みて、「本当にこれで患者は幸せになれるのか?」との疑問が日々強くなってきています。

そこで、私が考える理想の医師(差し支えなければこの「医師」を一人の医師では無く、有機的な協力の出来る医療チームと読み替えてもらっても構いません)像とそれをサポートするシステムを提案してみようと思います。

理想の医師の条件:以下の8つの条件を全て満たす

  1. 人間に関する分子レベルから身体レベルまでのミクロからマクロにわたる生命科学・医学分野に網羅的に精通
  2. 分野を問わず、過去から現在までの臨床研究や基礎医学研究成果に網羅的に精通
  3. 2の各研究成果の意義・価値判定能力
  4. 検査・診断・治療用のあらゆる医療システムに網羅的に精通
  5. 患者のゲノム情報、遺伝子発現情報、生理活性状態、腸内細菌状態、生活習慣、生活環境、精神状態、家族関係、社会関係、価値観などの患者固有の情報を網羅的に把握(真の個人最適化医療:personalized medicine)
  6. 上記1、2、3、4、5の網羅的情報を基に、総合的観点から目の前の患者に最適の検査法、治療法、予防法を選択
  7. 6で選択された治療法・予防法を的確に実施し完遂させ、患者(病気ではなく)を治療、あるいは病気を未然に防ぐ能力
  8. 人間として常に目の前の患者によりそえる全人格的態度

もし実際にこれらの8つの条件を全て満たせば、果たしてその医師は本当に理想の医師と言えるでしょうか?これをまずは世に問いたいと思います。

さて、もしこの様な医師が理論上(in principle)理想だと仮定した場合、次に問題になるのが現実の世界(in practice)で「果たしてこれは実現可能なのか?」ということです。しかしながら、実際に上記8つの条件を全て満たす事は有限の能力しか持ち得ない人間だけでは実現不可能であることは、論を待たないでしょう。

そこで提案したいのは、「医師が、生身の人間としての医師でなければ出来ないことにのみ集中できる」ような総合医療サポートシステム(Comprehensive Medical Support System: CMSS)の構築です。

つまり、上記1から6までの条件で、膨大で多岐にわたる生命科学および医学の知見やデータの取り扱い、処理、検索、分析などの部分を、可能な限りコンピュータ、ロボット、人工知能などのITで肩代わりさせることにより、医師が7と8に集中できるようサポートするシステムです。ただし、このシステムはただ単に電子カルテや細分化されたBioinformaticsなどのいわば単独単純なITではなく、いわば1から6までを総合的かつ網羅的に実現しうるソフトウェアとハードウェアに、各医師の能力や癖までを把握しうる高度なアルゴリズムと、効果的なマン・マシーン・インターフェースを組み込んだ総合システムです。

このようなシステムを構築できれば、医師あるいは医療チームは、本来人間としての医師あるいは医療チームが取り組むべき医療行為のみに専心できるのではないでしょうか。

ただし、1と2の中でも要となる知識だけはこれまで通り自分のものにしておく必要がありますし、3と6の判断が入るプロセスにおいては、このシステムはあくまでも医師の最終判断をサポートする補助的役割を果たすに留めておくべきでしょう。

そして最も重要なのが、このCMSSシステムが患者にとって最善の結果をもたらすように設計され使用されることです(患者のために:patient centered)。

製薬業界の成長期待と医療費削減要求の狭間で – 21世紀のあるべき医療 –

大手コンサルティング会社であるPricewaterhouseCoopers社*の概算によると、平均寿命の延び、高齢化社会、肥満の増加、各国民の収入の増加、地球温暖化**などに伴い、2020年には世界の薬の総売上額が現在の5,200億ドルの2倍以上の1.3兆ドルに達すると予想されています。

製薬業界にとっては受け入れやすいこの成長予想は、翻って医療を受ける国民にとっては単純に考えると薬代が2倍以上になると言うことであり、素直には受け入れ難いものと思われます。もちろん医療には薬だけではなく種々の要素が複雑に絡み合っていますから、単純に薬代が2倍以上になるわけではないですが、製薬業界のこの様な右肩上がりの報告を読む度に疑問がわき上がって来ます。その釈明と言うわけではないのですが、同社のスポークスマンであるFarino氏は、より効果的な薬が開発され、より効果的に病気の予防・治療をすることができれば、たとえそれが高価であっても、実際に症状が悪化した後に施される治療に対する医療費よりも結果として低く抑えることが出来るであろうと述べています。これは、開発された薬が本当に有効であることが前提になります。彼の言葉を実現させるには、製薬企業が真に各個人に最適化され効果的な新薬を開発し、それを最適の投与法で各個人に投与し、一般市場に出回った後もその効果をしっかりとモニターしながら確認することが必要になります。次にその実現に向けての最近の動きを紹介したいと思います。

ポストゲノムのこの21世紀において、我々人類はそのための技術を確立しつつあります。遺伝子に対するゲノミクス(genomics)、RNAに対するトランスクリプトミクス(transcriptomics)、タンパクに対するプロテオミクス(proteomics)、代謝に対するメタボロミクス(metabolomics)などの分野を有機的に統合するのです。いわゆるシステム生物学(Systems Biology)がその統合方法を提供する最有力候補です。その統合技術を基に、各個人のゲノムの情報を出発点とし、各個人の遺伝子の発現度・活性度、体内での種々のタンパクの実際の働き、環境との相互作用などの生体反応に影響を及ぼしうる全ての情報を加味した上で、最適の治療法が施されるような医療、さらに進んでは病気になる前に未然に前病段階を察知し未然に病気を防ぐことが出来るようになるのが医療の理想の形ではないでしょうか。それは同時に、現在大手を振ってまかり通っている杜撰な統計処理に基づいた十把一絡げEBM医療(Evidence Based Medicine)を超越し、各個人に最適化された医療(Personalized Medicine)でもあります。今世紀半ばには、それは必ず実現すると信じています。

20世紀初頭からの物理学の世界における相対論と量子論の発展により、物理学を基盤とする科学、さらにはその科学知見の現実世界への応用としての技術が爆発的に発展し世界を大きく変えたように、21世紀に於いては生命科学が爆発的に発展し人類の健康に大きく貢献することを心から期待しています。人類の叡智を結集すれば決して夢物語では無いと思います。

[脚注]
*世界149ヶ国に14万人の従業員を持つ有数のコンサルティング会社
**地球温暖化により感染症が増加すると仮定